熊野~伊勢の国(日出ずる国)巡礼記 その1
近年、縁あって神社巡りをしています。
今から3年前に、主人の故郷である九州に里帰りした折、
博多祇園山笠で有名な櫛田神社にお参りしました。
その時、社殿の中より、問われたことがあります。
「おお、使者が参られた」
「使者?」その時は意味がわからず、
「いいえ、私どもはそのような者ではありません。
ただの人間です。ご縁を結びたくて、ここに参りました。」
そうお答えしました。
使者・・一体何のことだろう。
またいくつかの神社で、やはり同じように使者が参られたと、
声を掛けられることが、この頃、多くなってきました。
そこで、私たちを導く存在に、尋ねてみました。
「神社にお参りに行くと、
使者が来られたとか、使者の方と声を掛けられます。
これは一体どのようなことを意味するのでしょうか。」
すると、導き手は、
「まず、神々にはお役目があり、その存在と役割によって、格が与えられている。
言い換えれば、守るべきである土地や地域と言い換えることができるだろう。
よって、神々は、土地や地域を守らねばならぬが故に、
一歩もその場所を離れることができない。
それが、唯一許されているのが、神無月(11月)である。
多くの神々は出雲へと赴き、意見や情報を交換し、
これからの日本をどう導き守るのかを相談する。
これが、年に1度行なわれている。
神々は、持ち場を離れることができない故に、
神々の間を行き来するものが必要となる。
つまり人のことである。
特に、無私なる願いを持ち、清き光を発するものが使者となる。
神々に己の欲を願うものは、使者とは足り得ず。
あなた方が赴いた神社にて、
使者が来たと言われたのは、無私なる光を身にまとい、
その光の中に込められた情報を、神々が読み解いたからであろう。
故に、無私なる願いを持つ者たちは、すべて使者と言える。
あなたもその中の1人である。
神と神との情報の交換は、多くはそのようにして行なわれている。
人の往来のある神社は栄え、人の途絶えた神社は寂れていく。
あなた方人は、知らず知らずの間に、そのような役割を担っているのだ。
使者に対しての問い、これで良いかな。」
そこで初めて、なぜ私たちが(私たち人が)、
使者と呼ばれているのかについて、知ることができました。
使者としての役割。
このことを踏まえ、5月下旬に、熊野から伊勢を巡る旅に出ました。
(昨年は、出雲。今年は熊野へお参りしよう。)
特に何かに惹かれ、特別な願いを叶えるためにという目的ではありません。
なぜか、出雲・熊野を回り、最後に伊勢にお参りしなければならない。
そんな漠然とした欲求から、今回の旅となりました。
その時にお参りした熊野・伊勢路の写真を交えながら、
神さまのメッセージを皆さまにお届けしたいと思います。





