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2009年06月 アーカイブ

2009年06月06日

~佛教用語:坐禅3(自己観察のススメ)by koei~

お釈迦さまも、私たち凡人も、苦の原因はまったく同じ。

苦の種類:四苦八苦

四苦  (1)生苦:しょうく…生まれる苦しみ
     (2)老苦:ろうく・・・・老いる苦しみ
     (3)病苦:びょうく…病の苦しみ
     (4)死苦:しく………死の苦しみ

八苦  (5)愛別離苦:あいべつりく…愛するものと別れる苦しみ
     (6)怨憎会苦:おんぞうえく…嫌な人とも会わなければならない苦しみ
     (7)求不得苦:ぐふとっく……求めても得られない苦しみ
     (8)五蘊盛苦:ごうんじょうく…生きていること自体が苦しみ

※注:煩悩に3つ 貪欲(むさぼり)・頬憲(いかり)・愚痴(おろかさ)
    涅槃:ねはん(ニルバーナ)…煩悩の消え去った状態・悟りの境地

お釈迦さまも、苦の原因を探るために、
菩提樹の下で、同じように足を組み、
一生懸命に苦の原因と向き合われ、その解決法を見出された。

その教えが、仏教として、今日に至っているものだ。

さて、お釈迦さまは、何を見出されたのだろう。

それは、四諦八正道という考え方の中に、集約されている。

四諦八正道:したいはっしょうどう

  四諦  ・苦諦:くたい
          人は生まれながらにして、4つの苦、生老病死を背負っている。
          この苦は必然であり、誰も逃れることはできない。

       ・集諦:じったい
          苦には煩悩という原因がある。

       ・滅諦:めったい
          煩悩が滅して、苦のなくなった状態。悟りの境地。

       ・道諦:どうたい
          苦を滅して、悟りの境地に至る道が、八正道である。

  八正道 ・正見:しょうけん…正しい見方

        ・正思:しょうし……正しい思考

        ・正語:しょうご……正しい言葉遣い

        ・正業:しょうごう…正しい行為

        ・正命:しょうみょう…正しい生活

        ・正精進:しょうしょうじん…正しい努力

        ・正念:しょうねん……正しい記憶

        ・正定:しょうじょう…正しい精神統一


お釈迦さまの生きた時代、
もちろん現在のインドもそうだが、
カーストという厳しい身分制度があり、
人の下にも人がおり、それが当然とされた時代であった。

そのカーストは、
現代においても完全になくなったとはいえない。

現在のインドでは、
ヒンドゥー教が、大多数を占めているが、
イスラム教・仏教もその痕跡をとどめている。

今、そのインド仏教が、身分制度撤廃という見地から見直され、
人々の関心を少しずつ広げている。

私の学生時代の先輩も、まさにその渦中にいる。
(インド生まれの方で、中・高・大学を日本で過ごす。)

またの機会に、インドの仏教事情について、
お話をさせていただくとする。

さて、日本仏教会が、
インド仏教会と交流を深めようと、
お坊さん数人を布教目的で、インドに派遣している。

その時のエピソードをご紹介したい。

我々、修行僧は、修行の為に、
仏事以外の作務ということも大事な修行であると捉えているため、
掃除・洗濯・調理など一通りのことは、何でもできるように師より鍛えられている。

しかしながら、インドにおいて、
民衆の前でほうきを持って掃除しているところを、見られると、
お坊さんの説教は、見向きもされなくなる。

ほうきを持って掃除するというカーストがあり、
お坊さんが、掃除をしてしまうと、
そのカーストの人間という風に、見られてしまうため、
掃除をすることなど許されないのだ。

こんな調子だから、
トイレ掃除などしているところを見られようなものなら、
お坊さんは、もう終わりだ。

誰も話を聞いてくれることは、ないだろう。

従って、説教をする以外のことは、何も出来ず、
ただニコニコしているほかないということなのだ。

また、カーストの凄まじさは、
私たちの度肝をぬくことがある。

あるとき、言葉は悪いが、乞食の方の子供たちに、
手のない子や、目の見えない子供たちが、たくさんおり、
不思議に思った僧が、
「これは遺伝的なものがあるのか、
 それとも、病気にかかっても医者にいけない為に、
 身体に損傷をきたしたのか」と、尋ねたところ、

通訳の方が、
「いいえ、あれはわざと親がやっているんですよ」

「何てことだ!警察は何をやっているんだ」と、
憤慨したところ、通訳の方いわく、

「いいえ、違うのです。
 あれは親の深い愛情から、
 手や足を切り取り、目をつぶしているのです。」

「そんな馬鹿な!」

「カースト制度では、乞食の子は大人になっても乞食。
 普通の身体をしていては、人から物を恵んではもらえないのです。
 生きていくために、ああして子供を傷つけているのです。」

あまりの凄まじいその現状に、言葉を失ったと言う。

この話は、昭和も終わりに近づいた頃、
私が修行時代、インド帰りの僧より聞いた話だ。

その僧は、
「カーストの前で、我々僧侶は、あまりに無力。
 絶望的な思いで、逃げるように日本に帰ってきた」とのことだった。

※注 この文章の中で、乞食という言葉を使っています。
    差別的な言葉であることは承知しております。
    カースト制度というものをありのままの姿として伝えるため、
    敢えて使わせていただきました。
    もちろん、そのような方々を見下して使用しているわけではありません。
    そのことをお断りいたしておきます。


        ~以下、来週の13日(土)へつづく~

2009年06月13日

~佛教用語:坐禅4(自己観察のススメ)by koei~

お釈迦さまの時代、カースト制度はもっと厳しく、
その中で、お釈迦さまは、人の絶対的平等を説かれた。

お釈迦さまの教団の中には、身分の低いカーストの方々もおられ、
その高弟の中にも、何人かこのようなカーストの方を登用されている。

私たちが日々の暮らしの中で、迷い・苦しむことといっても、
時代が違うとはいえ、ここまでのことはないが、
お釈迦さまの提唱された仏教が、
このような背景の中から生まれてきたことを知るだけでも、価値のあること。

しかし、いくら教を読み、仏教を修行しても、
心の中に残る虚脱感・虚しさ、そういったものは、未だ解決されてはいない。

おそらく、この後の人々にとっても、
その悩みは同じこと。

人によって、悩みも苦しみも、
その度合いはすべて違う。

その救いもまた然り。

己を救い、その苦しみから解き放つことの出来る存在は、
己でしかない。

仏教を学び、
禅を組んでも、
その中にある本質を見出していくのは、
教えを説く人でも、仏様でもない。

あなた自身なのだ。

静かに、足を組み、
己が呼吸にすべてを託し、
雑念と足のしびれと戦い、
ひと時、自身と向き合ってみる。

世の苦しみ・苛立ち・虚脱感・虚しさ、
このようなひきこもごものことを、
足を組み、瞑想をしても、
何も、誰も、解決してはくれない。

誰もが、何もしてくれないが故に、
叫びとは言わない叫び、嗚咽を正直に表わし、
苦しい・寂しい・悲しい・何をしていいか分からないと、
その姿をさらけ出してみるのも、禅のあり方である。

その在り様に、正しきものはない。

ただ、そのような己の姿に、
禅を通して接してみたとき、
己を正しく見定めて欲しい。

禅は、正しきものにあらず。
己が真実を映すのみ。

禅は、私たちの悩みをすべて解決してくれるわけではありませんが、
深く己を見つめようとする手助けには、なります。

そこに禅の意義と価値があるのです。

その価値に気がついたいにしえの賢人たちが、
長く守り伝え、手を加え、禅は体系化され、
今日のスタイルになったのです。

今や禅は、お寺に行かなくても、
坐禅のサークルやカルチャーセンターなどでも、
手軽に体験できるようになってきました。

一度機会がありましたら、是非ご体験ください。

皆さん、苦しくったって、いいじゃありませんか。

佛は、しっかりと見ていますよ。

そんな素直なあなたが、佛は好きなんです。


5月30日(土)に、報知新聞後援で、
坐禅体験イベントが、東銀座にて、開催され、
盛況のうちに終えることができました。

来週の18日(木)のスポーツ報知に、
記事が掲載されます。

もしご興味がございましたら、
ご覧くださいませ。

来週の20日(土)は、坐禅体験イベントの報告記事等を
お届けしたいと思います。

2009年06月17日

明日のスポーツ報知新聞に記事が出ます!

こんにちは、日響娃です。
いつもご覧いただき、ありがとうございます。

先月30日に、報知新聞後援の坐禅体験イベントを、
開催いたしました。

その体験記事が、明日のスポーツ報知に出ます。
21面の「ナビゲーション」の辺りです。

宜しければ、ご覧くださいませ。


                 日響娃

2009年06月20日

~佛教用語:坐禅のススメ~

5月30日に、東銀座で、坐禅の体験イベントを行ないました。
今回は、そのときの写真と体験記事をご覧頂きたいと思います。

尚、このときの模様は、
6月18日(木)のスポーツ報知に掲載されております。




   20090620-1.JPG

今、坐禅が静かなブームを呼んでいる。

ヨガ・気功・太極拳・ピラティス等、
様々な癒しやリラクゼーションといったものが、流行ってきたが、
今、禅が老若男女を問わず、カルチャーの一部として受け入れられている。

アロマテラピーやエステマッサージといったものが、
都会に住む我々に癒しと安らぎを与えてくれるが、
今やその中に忽然と禅の空間が出現している。

間接光に照らし出された薄明かりの中、浮かび上がる畳と障子、
かすかに香る線香の匂い、水の流れる音、
純日本風の庭園にも似た和の佇まいの中で、静かに足を組む人々。

   20090620-2.JPG


何と言うことはないビルの一室の中に、
坐禅を求めて、仕事帰りの会社員が、足を運んでいる。
このような光景は、朝出勤前にも見受けることが出来る。

書店に行けば、禅に関するコーナーが設けられているぐらい、
今、禅は静かに人々に受け入れられている。

坐禅と言えば、
都会を少し離れた静かな山の中に佇むお寺の中で、
精神を鍛えることを目的とした人が、真剣に己と向き合う…、
そんな風景が目に浮かぶ。

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しかしながら、一般の方が、足を運ぶには、敷居が高く、
またどこに行けば体験することが出来るのか分からない。

  ・初心者は受け入れてくれるのか。
  ・一体何時間坐らされるのだろう。
  ・少し動くと、お坊さんに木の棒のようなもの(警策:きょうさく・禅杖)で、
   バシっと打ち据えられるし、お坊さんも怖そう。
  ・動いてはいけない。
  ・足がしびれる。
  ・怒られる。
  ・心を鍛えるにはいいのだが、取っ付きにくい。

私たちが、坐禅というと頭に浮かぶイメージではないだろうか。

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禅は、鎌倉時代に、道元禅師や栄西禅師という二大巨頭によって、
武士階級の間に広まっていき、時代もその精神性を受け入れ、今日に至っている。

禅とは、正式には禅定(ぜんじょう)と言い、
サンスクリット語のディヤーナ(禅)の音写と、
その意訳としての(定:心を一点に定めること・静めること)
この2つを組み合わせてできたものが、「禅定」という言葉である。

静かに坐し、心を安定させ、統一された状態へと導いていく。
あわただしく日常を送らなければならない現代人にとって、
時間を確保することは、並大抵のことではない。

そんな忙しい現代人向けに、今回の坐禅体験イベントは、企画された。

深山幽谷の地で、静かに禅を楽しむということはできないが、
いにしえより伝えられた禅の作法に則り、お経を唱え、
数息観(すうそくかん)という伝統的な観法を用い、一心に呼吸を行なう。

数息観…1で吸って、1で吐く。これを1~100まで繰り返す。
      およそ7分50秒~8分、これを3回繰り返す。
      時間が来るごとに、維那(イナ:禅の進行を取り仕切る導師)より音が入れられる。

3回目が終わると、維那が背中を軽くトントンと叩いてくれる。
(今回は、警策を使わずに、手でその代わりとなす)

動いてはいけないというプレッシャーから、やっと開放されホッと一息つく。
その後、全員で般若心経をお唱えし、今回の坐禅体験イベントは終了。

   20090620-5.JPG


すっきりと気持ちよく坐禅を組めた方もいらしただろうが、
大半の方は、足のしびれと、動いてはいけないという重圧との戦いの中で、
心を落ち着けることなど出来なかったのではなかろうか。

それでも、今回禅に触れ合った方々には、
自分なりの何かをしっかりと感じ取っていただけたと思う。

お釈迦さまの時代から、今日に至るまで、人の悩みは尽きることはない。
その解決法も、昔と何ら変わることもない。

人は心を落ち着けるために、静かに足を組み、
心の一点に意識を集中し、心を悩ませている原因を探る内観の法を発達させてきた。

その1つの形態が「禅」であるならば、
その中には、昔の賢人の智慧がたくさん詰まっている。

時間は掛かっても、いい。
すぐに解決に至らなくても、良いではないか。

ゆっくり息を吸い、ゆっくり息を吐く。それでいいんだよ。
これが昔の人たちの悩みの解決法。

今日は、「禅」を体験した方の意識の中に、
少しでも「禅っていいもんだなあ」と思ってくれる方がいらしたら、
この体験イベントもお役に立てたのではないかと思います。

ありがとうございました。

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2009年06月27日

~佛教用語:阿修羅像(心の映し鏡)~

東京に阿修羅像がやってきたのは、57年ぶりのことである。
3月31日(火)より、6月7日(日)までの61日間に、
延べ人数にして(94万6172人)の方が、上野東京博物館を訪れた。

阿修羅とは、サンスクリット語では、
「a」が不定の接頭語となり、
「sura」が天を表すため、非天と訳され、
帝釈天との戦いを通じて、悪神として扱われるようになったため、
修羅界という人間界より一段低い地位が与えられた。

阿修羅王は、お釈迦さまを守る天龍八部宗の1人に数えられている。

仏教では、たくさんの土着の神々を受け入れ、仏教化していった。
阿修羅王もその1人。

阿修羅王は、帝釈天との戦いに敗れた後、
お釈迦さまの教えを聞き入れ、教化されたため、
今は、釈尊を守る守護神となっている。

天龍八部衆とは、

・天(てん)
  サンスクリット語で「ディーヴァ」と訳し、意味は輝くもの、
  天上界を護るすべての神々を指している。

・龍(りゅう)
  「ナーガ」といい、意味はキングコブラを神格化したもの。
  八大龍王の総称でもある。

・夜叉(やしゃ)
  「ヤクシャ」、「羅刹:ラセツ」とも言う。
  森に住んで、人々に危害を加える鬼神を指す。十二神将などが有名。

・乾闥婆(けんだつば)
  「ガンダルヴァ」といい、帝釈天に歌舞音曲を持って仕える。

・阿修羅(あしゅら)
  「アスラ」といい、天部にあらざる者、非天と訳され、
  度重なる帝釈天との戦いに敗れ、後にお釈迦さまに帰依し、仏法守護神となる。

・迦楼羅(かるら)
  「ガルーダ」といい、悪龍を食べる鳥を神格化したもの。

・緊那羅(きんなら)
  「キンナラ」といい、美しい鳴き声の鳥を神格化したもの。
  歌舞で、毘沙門天に仕える。

・摩睺羅迦(まこらが)
  「マホーラガ」といい、地を這う大蛇を神格化したもの。
  音楽の神とされ、踊る姿や横笛を吹く姿で、現される。

以上、天龍八部衆は、「法華経」の「比喩品:ひゆほん」や「観音経」の中に登場する。
(天台ブックレットNO.53 「ほとけさまのサイン」浦井正明氏 参照)


東京国立博物館(平成館)では、
1日1万人以上の方が、阿修羅像の見学に訪れていた。

来月7月14日(火)~9月27日(日)まで、
福岡県の九州国立博物館にて、阿修羅像展が開催される。

人々を引き付けて止まないその魅力とは、一体どのようなものなのだろう。

普通、仏像というと、仏頂面と呼ばれるように、顔の表情に喜怒哀楽がなく、
あまり良い表現では用いられないが、
感情を抑えて、作られているゆえに、仏さまを拝む人々の心を映す。

ある人にとっては、微笑んでいるようにも、笑っているようにも見えるし、
また、ある人にとっては、恐ろしくもあり、怒っているようにも感じる。

興福寺の阿修羅像は、三面六臂のお姿をされている。

聖武天皇の后、光明皇后(生母:橘三千代(たちばなみちよ)の一周忌の供養のため)によって、
734年に制作された。

麻布を漆で何層にも塗り重ねられた『脱活乾漆造:だっかつかんしつぞう』という技法が
用いられている。

これは、鋳造や木像とは違う古い技法である。

その当時、漆というとても高価なものを用いて作られていたため、普及せず、
その技法は、今伝承されていない。

興福寺も幾度ともなく、戦乱大火に見舞われているが、
この漆塗りの技法のおかげで、153センチながら、15キロと軽く、
持ち出しやすかったため、その大火を何度も逃れおおせた。

さて、この阿修羅像、見れば見るほど、
不思議なお顔をされている。

少年のようにも、少女のようにも見える。
明らかに、大人とは違う、その体系。
幼児期から、青年期にかけてのシャープな体つき。
正面のお顔は、何かを見通すような遠い目をしておられる。

今回の展示では、360度の方角から、
お姿を拝見することができる。

向かって左側のお顔は、唇をかみ締め、少年特有の反抗期のようにも見え、
右側のお顔は、眉間にしわを寄せて、青年期の内なる苦悩を表現しているようにも見える。

魅入る人々の心の中そのものが、
阿修羅像の顔を千変万化させるのであろう。

今から1300年もの昔、
天平の頃、大らかな都の様子が、万葉集にたくさん収められているが、
その反面、世の中は、飢きんや地震という天変地異に見舞われ、
政情も長屋王の変などもあり、戦火の絶えない時代であった。

そんな時代背景とあいまって、
この世のものとは思われぬ美しき阿修羅像は、生み出された。

光明皇后の深き祈りと、
苦悩が、この阿修羅像には、込められているのであろうか。

時を越えて、今の時代、世界大戦というべき戦争は、起こらないかもしれないが、
イラクやアフガニスタンでは、未だに戦いは終わっていない。

ソマリア沖では、時代の遺物と思われていた海賊が、未だに跋扈している。

地球温暖化の現象は、
各地で異常現象を引き起こし、
大洪水や干ばつを、我々人類にもたらし、
世界的には、今、新型インフルエンザという、厄災が、大問題になっている。

日本でも、初めは関西を中心に、
今は、全国で、インフルエンザの災いが、広がりを見せている。

苦悩する阿修羅像が、物語っているのは、
まさに、この世そのもの。

今、阿修羅像が、現代人に熱狂的に受け入れられているのは、
その優美な美しさとあいまって、
何かにすがりつかずにはおられない、私たちの心そのものに、あるのだろう。

阿修羅像の2本の天に突き上げられた腕が、
中段に下がり、正面で合掌となる。

我々の内なる修羅も、
エゴでは、争いはなくならないことを悟ることができたとき、
やがて治まっていくのであろうか。

皆さんには、阿修羅の顔はどのように見えますか。

怒っている?
微笑んでいる?
泣いている?
苦悩している…?

それは、皆さんの心そのものなのです。

光明皇后の平穏への祈りは、
時代を超えて、未だに続いている。

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